倫理と道徳はどう違う?微妙な違いをわかりやすく解説!
「倫理(ethic)」と「道徳(moral)」は、どちらも「良い行為・悪い行為」を区別したり、「人としてすべきこと・すべきでないこと」を判断したりするための規範であり、人間の生活に不可欠と思われています。
でも実際、倫理と道徳はどう違うのでしょうか?
この違いをちゃんと理解できている人は、学生だけでなく、社会人のなかでも少ないでしょう。
しかしこの違いを知っていると、学校で習う「道徳」や「倫理」についての理解が深まるだけではなく、自分や他人の行為について本当に考えるべきことはなんなのかが見えてくるのです。
道徳と倫理の一般的な定義
まず、この二つの概念が一般にどう理解されているかを確認しましょう。
国語辞典を引くと、それぞれ次のように定義されています(デジタル大辞林)。
道徳:人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。
倫理:人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。「倫理にもとる行為」「倫理観」「政治倫理」。
どちらの定義でも、「善悪の判断の規準」とか、「人が守るべき規範」とかいった要素が含まれています。
それどころか「倫理」の定義においては、「道徳」という言い換えさえ指示されています。
では、両者は同じ意味として理解するべきでしょうか?
もちろんそうではありません。
注目すべきは、「道徳」の定義が「守り従わねばならない」とされており、「倫理」の定義が「守り行うべき」とされていること。
「ならない(must)」なのか、「べき(should)」なのかという違いです。
一般的に、mustはshouldよりも強い強制力をもつとされています。
では、道徳は倫理よりも強い規範として理解できるでしょうか?
拘束力の強弱という観点から、これらの関係を考えていきましょう。
法と道徳と倫理 〜強制力の度合い〜
まず、道徳と倫理の強制力の違いを比べる前に、社会においてもっとも強制力の強い規範について考えてみましょう。
それは言わずもがな、法律です。
「他人の所有物を盗んではならない」とか、「他人を傷害してはならない」とか、「他人を殺害してはならない」とか。
こうした法規範の違反者には、社会に与える悪影響の大きさに比例する罰が課されることになっています。
法規範は、人が社会においてやってはならない行為を指示し、しかも違反行為には実際の刑罰や科料が課されるという点で、最大の拘束力をもつといえます。
これに対して、道徳や倫理は、ともに拘束力としては法よりも弱いといえます。
なぜなら、道徳や倫理を違反しても制度上の罰則は与えられないからです。(人に責められることはありますが。)
では、倫理と道徳の拘束力はどう比較すればよいでしょうか。
それは、これを違反したときにどんな反応が帰ってくるか考えればよいといえます。
最近では、「公共の場ではマスクをしなければならない」という道徳規範が構築されつつあります。
そして、マスクをつけていないひとが、他の人によって煙たがられたり、義務に反しているとして責められたり、特定の集団から排除されそうになったりすることがあります。
このように、非難や排除といった過激な反応が、道徳の違反者に降りかかることが予想されます。
他方、倫理というのは、「被災地の復興支援をするべきだ」とか、「貧困層の子供に寄付をするべきだ」といった規範を指します。
こうした倫理的規範は、破ったところで誰かに非難されることはありません。
たしかに、「守った方がよい」規範ではあります。寄付をする人はしない人よりも称賛されることはあるでしょう。
でも、寄付を拒否したからといって、「あなたは義務に反している」とまで非難されることはありません。
倫理はあくまでも「べきshould」の問題です。
これは、「あなたは夏休みの宿題を早めに終えるべきだ」という言明と同じで、結局は宿題を夏休みギリギリに終えることになったとしても糾弾されず、あくまでも倫理的規範に従うと褒められるというだけのことなのです。
このように、道徳には「義務」の要素があり、違反者には非難が投げかけられるのに対して、倫理は「ベター」の要素を含み、違反者が必ずしも非難に値しないという違いがあります。
道徳と倫理のさまざまな違い
道徳と倫理の違いが拘束力の違いにあるということは、すでにわかったと思います。
道徳が含むこの義務性は、さらに道徳のさまざまな特徴を構成することになります。
道徳が義務の要素をもち、違反者は非難に値するとすれば、道徳を守ることはすべての合理的な主体にとって当然のことと思われます。
マスクをつけないことで周りの人に嫌な顔をされることが理解できる主体は、マスクをつけない理由と、違反したさいのデメリットを見比べて、最終的には道徳に従いマスクをつけることになることが当然視されます。
言い換えれば、道徳を守ることは合理的で、道徳を破ることは不合理だということになるわけです。
さらに、道徳は社会に生活する人全員の義務として、ある程度理想的な条件下であれば、道徳的行為を不可避なこととします。
ある男が公園を歩いているとき、子猫がカラスに襲われていたとします。
ここで道徳規範は、彼が子猫を助けるよう要請します。
でも彼は助けませんでした。彼は、子供の頃猫に引っ掻かれて以来、猫が嫌いだったからです。
このような状況を見かけた女は、彼が「道徳的義務を怠った」と判断します。
男にとっては猫を助けない理由がありましたが、この理由は道徳的要請をキャンセルする理由にはならない、ということです。
基本的に、道徳的要請はキャンセルできないという意味で、不可避なものとされます。
こうして、道徳の三つの特徴がわかりました。
それは、
義務性
合理性
不可避性
の三つです。
倫理との違いもこうした性格からわかります。
倫理は義務ではありません。破っても非難されることがないからです。
倫理に従うことは必ずしも合理的ではありません。倫理に従ったところで、望まれる対価を得られるとは限らないからです。(カンボジアに学校を立てるプロジェクトに参加したが、多くの人に「偽善者」となじられた。)
倫理に従うことは必ずしも不可避ではありません。倫理に従わない理由があれば、別に従わなくてもよいのです。(被災地への寄付を持ちかけられたが、お金がないので断った。)
こうして、法・道徳・倫理を、広い意味での強制力の度合いにしたがって、次のように整理することができます。
まとめと問題 〜道徳の怖さ?道徳はいらない?〜
以上のように、道徳の強制力が倫理よりも強いことが確認されました。
道徳と倫理の違いも、主としてその強制力の違いに求められることがわかります。
簡単にまとめると、倫理は「するとよいこと」、道徳は「破ってはならないこと」として理解することができたでしょう。
しかし、以上のように特徴付けられた道徳概念には問題があります。
この強制力の強さに由来する危うさが、道徳にはつきまとっているのです。
SNS上での炎上やバッシング、いわゆる「私刑」と呼ばれる行為は、道徳の濫用に由来していると思われます。
「道徳は義務なのだから、これを守らない人間は社会から排除されるべきだ」とする過激でナイーブな発想は、かなり危険なものだと言えるでしょう。
ではどうすればよいのでしょう。
道徳を廃絶してしまえばよい、という考えがあります。
一見すると、あまりに刺激的な提案に見えるかもしれません。
しかし、道徳がなくても、法と倫理だけを用いて社会を安全かつ健全に運用できるという見解は、古い時代から唱えられてきました。
代表的なのは、スピノザやニーチェの思想です。最近では、バーナード・ウィリアムズやジョン・マッキーといった英米圏の学者たちが、道徳の不要性もしくは疑わしさを明らかにしています。
道徳廃絶論の基本発想は、道徳は利益よりも害の方が大きいということにあります。
この議論についての詳しい紹介は機会を改めたいと思います。
ここでは、道徳には少なからずマイナスの面がある(と言っている人がいる)ということを理解してもらえればよいと思います。
そして、こうした道徳概念が社会に本当に必要かどうか、あらためて考察してみていただければと思います。
さらに学びたいひとのための文献案内
- 江川隆男『超人の倫理-〈哲学すること〉入門』河出ブックス、2013年
ニーチェ・スピノザの観点から通俗的な「道徳」に批判を加えています。 - 古田徹也『不道徳的倫理学講義-人生にとって運とは何か』ちくま新書2019年
「運」という概念を軸に道徳批判を展開しており、最終章ではバーナード・ウィリアムズの議論が紹介されています。 - 城戸敦『極限の思想-ニーチェ-道徳批判の哲学』講談社メチエ、2021年
道徳批判の決定版でありながら難解なニーチェの議論が、最新の研究に基づき比較的わかりやすく紹介されています。