カントは『純粋理性批判』が難しいと思っている人向け|背景からわかりやすく解説します!

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「哲学者」や「哲学書」と聞いて、カントとその主著『純粋理性批判』をイメージする人も少なくないと思います。

実際、哲学の専門家からしても、『純粋理性批判』は桁違いに重要です。

それ以前の人類の知的活動の枠組みを根本から刷新し、それ以後の学問の方向性を決定づけた、革新的な書物だからです。

『純粋理性批判』は18世紀の後半に刊行されましたが、その時代は、科学はニュートン以後めざましい革新を続け、政治的にはアメリカの独立やフランス革命が起こるなど、世界中でさまざまな分野における「近代化」が進んでいた時代。

その時代に、旧来の学問観を塗り替え、今日まで通用する多くの認識的基盤を築いたのが、まさに『純粋理性批判』だったのです。

「哲学は難しそう」というイメージが広まってしまった一因は、この『純粋理性批判』という本にあるとも言えるでしょう。
それだけこの本は晦渋で、冗長で、掴みどころがなく、一言でいえば「分かりにくい」のです。

その分かりにくさの根本は、何よりもまず、この著作が何をしようとしているのか、その目的が見えにくいという点にあります。

そのためこの記事では、『純粋理性批判』が執筆された背景に着目しながら、そのエッセンスを抜き出して紹介していくことにしましょう。

『純粋理性批判』は、人間が自力で科学を進展できると示すために書かれた

『純粋理性批判』は何をした本なのか。その答えは(もちろん色々ありますが、あえてまとめるなら)、「人間の思考力だけで」「科学ができる」と示した、ということにあります。

ここで科学というのは、物理学を中心としたいわゆる「理学」を念頭に置いてもらえば良いでしょう。

ただし、「人間の思考力だけで科学ができる」というのは、当たり前のことにも思えます。

もちろん、ここで「思考力だけ」ということで除外されているのは、紙とペンからパソコンに至るまでの具体的な補助機材のことではないので、私たちが普通科学と呼んでいるものは、基本的に「思考力だけ」でやっていることになるわけです。

実は、ここで「精神だけ」と強調しておいたのは、「」に代表される形而上学的想定を除外するためです。
ひとことで言えば、神のようなあやふやな存在者に頼らずに、科学を実践することが目指されているわけです。

「そんなことは当然だ」と思われるかもしれません。
現に理学系の研究者は、神について言及することなく成果を出し続けているのですから。

しかし、それは現在の科学者たちがカントの敷いたレールの延長線上で活動しているから、そのようなことが当たり前に見えているだけだとも考えられます。

実際、カント以前の科学者たちにとって、神に言及せずに科学を展開するのはきわめて困難だったのです。

では、どうして昔の哲学者にとって「神」が大事だったのでしょう。

ここで「神」と言われているのは、宗教的崇拝の対象というよりも、普遍性や客観性を保証するための概念的な支えのことです。
いわば、私たち一人一人の独立した主体たちが共有する普遍的で同一の「場」のようなもの、それが神と言われるのです。

たとえば、二人の生物学者がケージに入れられた珍しい個体を観察するとき、彼ら二人は同じひとつの対象を見て、触って、観察していると考えるのが常識です。
そうでなければ、「この個体は体色が違うね」とか、「この個体は爪が長い」とかいうやりとりは決定的にすれ違ってしまうでしょう。

ただ、こういう場面で常識に反して哲学者が気にするのは、「どうして二人の生物学者が同じ個体を観察していると言えるのか」という問いです。

実際、二人はそれぞれ自分の立っている位置から、自分の中での知覚と思考のリズムに乗って、観察を続けます。

どんなに頑張っても、二人がまったく同じ目線から、同時に対象を眺めることはできません。無理に視点を重ねようとしても、身体がぶつかってしまいます。

こういう具合で、私たちはそれぞれ別の視点から、別の時点で対象を眺めざるをえないわけです。だからこそ、互いが見ている対象が実は違っているかもしれないし、その対象の中身だけがどこかの時点ですっぽり抜けて、ハリポテ状態になってしまっているかもしれない。

そういう可能性が(厳密には)どうしても排除できないということになります。

昔の哲学者たちは、こういう問題に突き当たったとき、たいていは「神」に助けを求めてきました。

神が作った人間の認識能力はマトモなはずだから、とか、対象と知覚との間に神が正しい回路を築いているから、とかいう具合にです。

つまり、客観的な認識を可能にする条件として、いわば万人にとっての共通の場として、神が要請されているのです。

近代合理主義の父と言われるデカルトや、微積分の発明者ライプニッツ、物理学の功績で有名なニュートンにおいても、多かれ少なかれ神が登場するのは、こういう事情が大きいと言えます。

だからこそ、人間の精神だけから出発して、神にたのまずに客観的な科学を打ち立てようとしたカントの試みは、当時としてはきわめて大胆なものだったとお分かりいただけるでしょう。

『純粋理性批判』の議論の内容をざっくり掴む

では、どうやってカントは、そのような大胆な試みを実現したのでしょうか。

これをわかりやすく解説するのは簡単ではありません。ここでは紙幅をとり過ぎますし、本題はもう少し別のところにあるので、ごく粗っぽくまとめてみましょう。

人間が自分の精神だけを頼りに、客観的な展望を開くにはどうすれば良いでしょうか。

さきほども言った通り、各人が眺めている対象そのものの同一性を直接論証するのはかなり難しいことです。
カントはこの路線を諦めて、大胆に方向性をシフトしました。

彼が試みたのは、わたしたちが対象についてもっている思考や概念の規則性でした。

たとえば、「家」の概念を取りあげてみましょう。
私たちは子供時代から、いくつもの家や、家の絵や写真や映像を見てきました。そのなかで、家というのはこういう形をしている、と学んでいきます。「屋根」「壁」「窓」「基礎」といった規則をもった構造物として、家を認知します。

同じような文化圏で育った人たちならば、当然家のイメージも概ね重なり合い、同じ家の概念を共有できます。

このように、直接対象の同一性を保証することはできなくとも、概念形成の規則に遡ってみることで、「同じもの」について語り合うことはできるようになります。

こういう規則性を、思考一般の根底に求めるのがカントの方向性だったのですが、ここでこうした詳細な議論に立ち入るのはやめておきましょう。

一旦内容面を離れて、次のトピックに移りたいと思います。

『純粋理性批判』の意義は?「啓蒙思想」という背景を踏まえよう

カントが、人間精神が自力で客観性を獲得し、科学を実践する土台を築いたことはわかりました。またそのために、思考の規則性に着目して議論を展開していることも紹介しました。

少し釈然としないのは、「どうしてそんなことをする必要があったのか」「そんなことをして何になるのか」という疑問が残るからだと思います。

こういう疑問は、哲学を面白く感じられない、意味がわからないと感じてしまう原因にもなりますから、ここで少しでも解消しておきましょう。(むしろ、こういう疑問を抱かずにここまでの議論を面白く感じたひとは、実は結構特殊な哲学的才能の持ち主だと思います。)

繰り返しますが、『純粋理性批判』の目論見は、神などの形而上学的想定抜きに科学を展開することにありました。
それはいわば、人間の精神が独り立ちして、自立して歩み出すことと言えます。

実はこうした「自立」というテーマは、18世紀に一大ブームとなった「啓蒙思想」と関係があります。

ここでの啓蒙思想とは、具体的に市民革命や普通選挙制度の導入といった社会システムの変革、およびそれに伴う個人の権利の獲得などを推進する社会的な姿勢のことと理解してください。封建的な体制に変わって、現代的でリベラルな社会体制を構築しようとする思想だということです。

カントは、啓蒙思想の旗手のひとりでしたが、「啓蒙とは何か」という論文のなかでこんなふうに言っています。

啓蒙とは人間が自ら招いた未成年状態から抜け出ることである。未成年状態とは、他人の指導なしには自分の悟性を用いる能力がないことである。

この未成年状態の原因が悟性の欠如にではなく、他人の指導がなくとも自分の悟性を用いる決意と勇気の欠如にあるなら、未成年状態の責任は本人にある。したがって啓蒙の標語は、「勇敢にも賢くあれ!」「自分自身の悟性を用いる勇気をもて!」である。(カント「啓蒙とは何か」冒頭の一節。)

カントは、18世紀のドイツにあって、いまだに地位の高いものにへつらい、他人の指導なしには生きていけない民衆たちに対して、このように呼びかけたのです。

自分の頭で考え、自分自身で選択と決定をなし、責任をもって行為する「成人」になるよう、ひとびとに求めたのです。

このような「自立」への要請は、「啓蒙とは何か」の一節においては、主に社会的・政治的な場面を念頭に置いて発されています。

しかし、そもそも実社会において自立して歩むことができるためには、私たちの精神が自力で歩みうる能力をもっていることが示されなければなりません。できないことを言っても仕方がないからです。

もうお分かりでしょう、『純粋理性批判』の晦渋な議論は、まさに、人間の精神が、神などの超越者の助けなくして、自力で満足に活動できることを示そうとしていたということです。

「啓蒙とは何か」が実際生活に関する提言だとすれば、『純粋理性批判』は、その提言が成り立ちうるための理論的な下支えという関係にあります。

このように、啓蒙思想的な「自立」を軸にして考えることで、『純粋理性批判』の議論の動機と意義が見えやすくなったことと思います。

まとめ

  • 『純粋理性批判』は、人間の精神が自力で科学を展開できることを示そうとした。それは、神に頼らずに客観的な認識の根拠を明らかにするという課題である。
  • 具体的には、思考の規則性と、その規則の共通性とが、客観的な認識を可能にする。
  • こうした試みは、大枠としては啓蒙思想的な「自立」のテーマと関わるものである。

以上です。

ごく粗削りにではありますが、『純粋理性批判』を理解するための基本的な部分がおわかりいただけたかと思います。

さらに興味を持たれた方は、以下の文献を頼りに思索を深めてみてはいかがでしょうか。

もっと学びたい人のためのおすすめの本を紹介

現在文庫で手に入るもののなかでは、一番読みやすくおすすめです。テクストの整備などの点でよりアドヴァンスドなのは、ちくま学芸文庫の原佑訳です。

『純粋理性批判』のような理論的な書物と違って、カントの政治観や歴史観が論じられた小篇が計5編おさめられています。いきなり哲学書は敷居が高い…と思っている方には、ぜひこういう切り口から入ってみるのもおすすめです。

日本のカント研究の大家が、『純粋理性批判』を細かく、丁寧に解説してくれています。手引きとして使えると思います。

カントの哲学的で抽象的な議論を、具体的な歴史的文脈に落とし込みつつ解説してくれており、わかりやすい一冊です。本ブログを書くにあたっても、大いに参考にしています。カント以外の哲学者もまとめて学べるお得感もあります。

著者情報

究進塾 編集局

究進塾 編集局
東京・池袋にある究進塾の編集局です。受験指導のプロが大学受験に役立つ情報をお届けしています。 大学受験対策コースはこちらからご覧いただけます。
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