「無知の知」の意味、誤解していませんか?正しい使い方と誤解の原因をわかりやすく解説!〜高校生のための哲学・倫理解説〜
哲学にとくに興味がなくても、「無知の知」という言葉自体は知っている・聞いたことがあるというひとが大半だと思います。
これは古代ギリシアのソクラテス、もしくはその弟子プラトンの思想の代名詞となっている、有名な標語です。
「ソクラテスよりも賢い者は誰もいない」という神託(神のお告げ)の真偽をたしかめるため、ソクラテスは、政治家、詩人、職人たちなど、知識・知恵を持っているはずの人々を訪ね歩きます。
その結果ソクラテスが発見したのは、
でした。
たとえば、私たちの多くは、「地球は丸い」ということを知っているつもりになっています。
しかし、「なぜ地球は丸いのか?」と聞かれると、「先生がそう言っていた」とか、「写真で見た」とか、いずれも厳密には疑わしい根拠しかあげられない人が大半で、地球が丸いことの(物理学的)論証を展開できる人はほとんどいないと思います(筆者もできません)。
これが、「知っていると思い込んでいる」けれども、実際には知らないという事態であり、ソクラテスはこういう思い込みを批判しているわけです。
これが一般に「無知の知」という標語で考えられている事柄とエピソードです。
ところがこの標語、あまりに有名になってしまったがために、言葉が「一人歩き」していて、拡大解釈や曲解の例も少なくありません。
この記事では、そうした誤解をできるだけ避け、この言葉を正しく理解する道標を示していきたいと思います。
「無知の知」に関するよくある誤解
では、「無知の知」に関する誤解とはどのようなものでしょうか。
それは、
「知っていると思い込む人よりも、知らないことを知っている人のほうが、知恵がある」
という理解です。
一見すると、さきほど紹介した「無知の知」の概要とほぼ同じですが、さきほどは、自分が無知であることを「知っている」とは書かれていなかったことに注意してください。
そう、ソクラテスは、自分が無知であることを「自覚」はしていても、「知っている」とはひとことも言っていないのです。
そんな細かい違いは大した問題ではないのではないか?と思われるかもしれません。
この違いの大きさを理解するために、もう一度、ありがちな誤解について考えてみましょう。
よくある理解によれば、「無知の知」の議論のキモは、自分が無知だと知っている人が、少なくともひとつの知識をもっているという点にあります。
知らないことを知っていると思い込んでいる人は、その思い込みという化けの皮を剥がしてしまえば、実際にもっている知識はゼロです。
これに対して、自分が無知であると知っているひとは、「自分は無知である」という知識をもっていることになり、したがって少なくともひとつの知識をもっているということになるわけです。
知らないことを知っている人:実際には知識は1
こうした理解では、「自分の無知を知っている」人は、「知らないことを知っていると思い込む人」に比べて、知識量が一つ分まさっている、したがって前者の方が賢い、という推論が成り立っていることになります。
よくある誤解はどうしてマズい?
以上のようなよくある理解は、一見わかりやすいものですし、なんとなく「深い」ことを言っていそうな雰囲気もあります。
では、いったいどうしてこういう理解は「誤解」として警戒されなければならないのでしょうか。
もちろん、すでに触れたように、ソクラテス(もしくはプラトン)自身が、「無知の知」という言葉を使わず、むしろ「無知の自覚」という言い方をしているという事実は揺るぎないものですが、それだけではありません。
よくある理解を採用することで、ソクラテスのほんらいの意図が歪められかねないということが問題なのです。
よくある理解によれば、自分の無知状態についての「知識」が成立することになるわけですが、そうだとすれば、その時点で自分は「無知」ではないはずです。少なくとも、自分の無知状態についての知を所有していることになるからです。
しかしソクラテスは、たしかに自分の無知状態を探究の動機としていましたが、その状態をそれほど簡単に脱することができるという楽観的な立場には立っていませんでした。
むしろ、無知の状態にとどまりつつも、自分自身について内省を続けることがソクラテスの本旨でした。そこでは、何かを「知っている」という思い込みをどこまでも排除し続けることが重要なのであって、たとえ自身の無知状態についてであっても、そのことは同断なのです。
したがって、こう言うことができます。
無知の知についてのよくある誤解は、無知状態から知識の所有状態への移行という素朴な発展観のもとでソクラテスの議論を捉えてしまう。
しかし、実際にソクラテスが意図していたのは、無知状態にあり続けなければならない人間のありさまをはっきりと自覚することであって、その自覚をひとつの知として捉えるなど言語道断なわけです。
よくある誤解はどこから生まれた?
よくある誤解がソクラテスの議論を歪めてしまうという点でマズいものであるということはお分かりいただけたと思います。
しかし、なぜこうした誤解が人口に膾炙してしまったのでしょうか。
いろいろと由来はあると思いますが、伝統的な哲学のなかでは、ふたつの経緯をあげることができます。
ひとつは、キケロという古代ローマの思想家に見られるものです。
キケロは、いわゆる「無知の知」のことを「不知の告白」と呼びますが、その理解の仕方はほとんど先述のよくある理解と変わりません。
キケロの眼目は、「知らないということを知っている」という主張をソクラテスに帰したうえで、彼が一種の「独断論者」(ここでは、厳密な根拠を持たずに物事を決めつける態度。懐疑主義の反対語)であると定式化することにありました。
こうしたキケロ的なソクラテス理解は後世に引き継がれていきますが、もっとも典型的にこれを活用したのが、15世紀の神学者、ニコラウス・クザーヌスでした。
クザーヌスは、「知ある無知」という表現を好んで用い、これを神学的な信仰の文脈に組み込みました。
こうして、キケロ的なソクラテス理解は、やがて神学的背景のもとでいっそう肥大化することになるわけです。
明治期に日本人が西洋哲学を輸入したさいにも、まさにこうした仕方でのソクラテス理解を引き継いでしまい、そのために、「無知の知」という標語が私たちにおなじみのものとなっていったと考えられます。
そういうわけで、よくある誤解にはそれなりの出自と理由があるのですが、いずれにしてもソクラテスの本旨を精確に捉えてはいないということがお分かりいただけたと思います。
ちなみにそういう事情もあって、最近の専門家のあいだでは、「無知の知」というミスリーディングな標語よりも、「不知の自覚」というより本来の表現に沿った言い回しが好まれつつあります。
まとめ
- ソクラテスの「不知の自覚」という議論は、知らないことを知っているかのように思い込むことを戒め、知らないことをその通りに自覚することを求める。
- しかし、「無知の知」という仕方でそれを誤解してしまうと、自分の無知状態についての知識が成立してしまう。それは、無知状態にとどまりつつ思索を深めたソクラテスの眼目を歪めかねない理解。
- こういう誤解は、キケロやクザーヌスといったソクラテス以後の哲学者たちによって練り上げられたもの。それ自体考察に値する含蓄はあるかもしれないが、ソクラテスの意図とは異なる。
以上です。
自分が知らないことを自覚し、その自覚のなかで思索を深めるというソクラテス的態度は、実際にどのようなものなのか。
そのような点について深くかんがえたい方は、以下の文献を参考にしてみてください。
さらに知りたい人のための本を紹介します
本記事の内容の多くはこの本に基づいています。ソクラテスにまつわるさまざまな主題について、本来のテクストに立ち戻りつつ考える、頼れる参考書です。
「無知の知」のエピソードである、「デルフォイの神託」が語られる一冊。新訳ですので、読みやすいです。
『ソクラテスの弁明』の詳細な解説書。原書だけでは大変ですから、こういう手引きがあると安心です。