プラトンのイデア論とは?その意味から理解しよう〜高校生のための哲学・倫理解説〜

古代ギリシアに生きた哲学者であるプラトン(前429-347)、そして彼の代表的な思想である「イデア論」は、世界史や倫理の教科書を通じてもよく知られています。

「イデア論とはどういうものか」という説明を聞いても、なんだかわかった気がしないのは、「イデア論にどんな意味があるのか」がよくわからないからです。

そのためここでは、なぜ、なんのためにプラトンがイデア論を唱えたのか、にフォーカスを当てて解説していきたいと思います。

1.イデア論とはどんな思想か

まずはイデア論の概要を理解しましょう。

一言にまとめれば、イデア論とは、現実世界に存在するこれこれのモノAと、そのモノの本質a切り離して考える発想です。この本質aが「イデア」と呼ばれます。

イデアとは、ギリシア語で「見る」を意味する動詞から派生した名詞なので、私たちが或るモノを見るとき、それを通じて見られているはずの本質を指すと理解できます。

たとえば、椅子には椅子のイデアが、人間には人間のイデアがあります。

私たちが見て、触って、その存在を直接知ることができるのは、目の前にある一個一個の椅子だけです。

でも、社長室のあの革製の椅子Bも、教室のあの木製の椅子Cも、公民館のあのパイプ椅子Dも、どれも「椅子」と呼んで私たちは理解しています。では、この椅子B、C、Dをどれも椅子と呼ぶことができるのはなぜでしょう?

もちろん、すべてに共通する性質についての概念があるからです。すなわち、「足がある」「座面がある」などです。

では、「足がある」かつ「座面があるもの」の概念はどこからくるのでしょう?

簡単に言ってしまえば、プラトンの答えは「それがイデアだ」というものでした。

私たちが感覚知覚をソースにして認識する個々のモノは、必ずしもその本質的な性質についての概念を与えてくれません。(もし与えるとするなら、私たちは「椅子」一般の概念をゲットするまで、いったいいくつの椅子を観察する必要があるのでしょう?)

反対に、感覚知覚を超えたなんらかの認識能力があり、それが椅子の本質の概念をゲットするのだと考えるなら、話はだいぶわかりやすくなるでしょう。

プラトンは、この感覚認識を「身体的」なものとみなし、反対に感覚認識を超えた認識能力を「魂的」「知性的」なものとみなしました。

こうして、感覚認識と、知性的認識の二種類の認識がある、ということになります。

そして、感覚認識の対象であるような個々のモノと、知性的認識の対象となる、モノの本質(イデア)がある、というのが、イデア論の基本図式です。

イデア論の意義

イデア論の概要は大体わかりました。でも、こんな議論を信じなくてはならないのはなぜなのでしょうか?イデア論を採用する意図がまだよくわかりません。

実は、プラトンがイデア論を構想した理由は単純ではありません。

ひとつには、上に述べたように、「イデアがないとしたらどうやって一般的な本質の概念を獲得するのか」(いわゆる「学習のパラドックス」)という、「認識論」的な問題もありました。

ですがここでは、もっとわかりやすくイデア論の意義を紹介します。

一言でいえば、イデア論は、政治的・社会的な生き物である人間がよく生きるために重要な示唆を与えているのです。

ソクラテスの処罰

イデア論の意図を理解するために、プラトンの人生にとっての重大な事件、ソクラテスの死刑判決について紹介しておきます。

ソクラテスはプラトンの師であり、ギリシアでもっとも優れた哲学者の一人でした。

ソクラテスのもとには向学心をもつひとびとが集い、社会で常識として広まっている様々な考え方に対する批判的精神を培っていました。

ですがソクラテスは、ギリシアの宗教に反した考えで、影響されやすい若者を誑かしたとして、死刑の判決を受けます。(プラトンの『ソクラテスの弁明』という有名な著作は、この裁判でのソクラテスの答弁を記述したものです。)

正しさと権力を区別するには?

ソクラテスのように真実を暴露する人が、時の権力者(もしくは多数派)によって罪を着せられるというこの出来事が、若きプラトンにとってショッキングであり、解決すべき問題を彼に与えました。

プラトンはこの問題を、「正しさ」と「権力」とが同じであるかどうか、という問題として捉えました。

ソクラテスの死刑の場合には、明らかに「正しくない」決定が「権力」によって承認されたのでした。

それでは、権力によって下される決断が常に正しいとは言えなくなるでしょう。権力による決定が間違えることがあるのです。

こうして、「正しさ」と「権力」を区別する必要性が生じてきます。

イデア論がないとどうなるか

ですが仮に、「正しさ」をはじめとする諸性質(「美しさ」や「善さ」など)が、世俗に存在する個々のモノのあり方でしかないとしたら、どうなるでしょう。

つまり、「この絵が美しい」とか、「この人は美形だ」とかいう仕方でしか、「美しさ」を考えられないとしたら、「この絵」=モノ抜きに「美しさ」を語ることはできなくなるでしょう。

こうなると、「美しさ」は「この絵」がもつ何らかの性質にすぎないため、「美しさ」そのものを定義することは難しくなります。またこのことから、「別のあの絵が美しくない」と判定するのも難しくなるでしょう。

こうして、絵を判定するときに私たちが用いることのできる尺度は、「好き嫌い」(私が好きなんだからこの絵は美しいはずで、これをディスる人は間違ってる!)とか、「権威」(有名な画家が描いたのだから、美しいはずだ!)とかに頼ることになるかもしれません。

このような欲望・選好や社会的構造に規定された尺度を用いることで、モノが本当に美しいか醜いかを判定することができるでしょうか?間違った判定を下さないと言い切れるでしょうか?

おそらく、こういう尺度はあまり信用できないでしょう。

イデア論があるとトップダウンの判定ができる

プラトンが提案しているのは、反対に、「美しさ」そのものを考えようということです。

「美しい」ということには、(たとえば色彩の)「バランスの良さ」が含まれているとすれば、バランスの悪い色彩で描かれた絵は、「醜い」と断定することができます。

こうして、「美しさ」について、個人の好き嫌いを超えた客観的な判断が下せるようになるでしょう。

美しさの例を通じて示されたことは、ソクラテスの断罪を通じてプラトンが抱いた問題意識にも当てはまります。

つまり、「権力」と「正しさ」の問題です。

「権力者が言っているのだから正しい」という判定は、「権力」という、たまたまそのときの社会構造によって支えられた、あいまいな尺度を用いています。

こういう頼りない尺度を用いると、ソクラテスのような被害者を生み出すことにもなるでしょう。

反対に、「正しさ」のイデアがあるとしましょう。そうすると、正しさと権力は必ずしも一致しないということになります。

正しさはそれ自体で考えられ、そこから、個人の正・不正を判定する、トップダウン式のルートが開かれます。

この点に、イデア論のもっともわかりやすい意義があると考えることができるでしょう。

まとめ

  • イデア論とは、感覚的に認識されるモノとは別に、知性的に認識される本質があるという発想。
  • 現実世界のモノの本質として考えらえれるものがイデア。
  • イデア論を通じて、現実世界にあるモノの善し悪しや美醜を、その本質に照らし合わせて(イデア→モノのトップダウン式で)考えることができるようになる。
  • こうしてたとえば、現実の政治権力と正しさを別ものとして考察することができる。
  • こういうイデア論の発想は、ソクラテスの裁判を通じてプラトンに与えられた課題への、彼なりの応答として理解することができる。

さらによく知るための文献案内

  • プラトン『国家』

プラトン読むならとりあえずこれ。

  • ヴィクトール・ゴルトシュミット「プラトン」『メルロ=ポンティ哲学者事典 第一巻』加賀野井秀一ほか訳、白水社、2017。

中国からインドからヨーロッパまで、そして古代から現代まで、有名な哲学者を紹介し尽くした良書。知的好奇心もみたせる。なお、プラトンのイデア論を政治権力と善さの関係で捉える視点は、全面的にゴルトシュミットにならった。

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究進塾 編集局

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