デカルトと17世紀科学革命〜「われ思う、ゆえにわれ在り」の意味をわかりやすく〜

ルネ・デカルト(1596-1650)は、哲学者・科学者・数学者であり、あらゆる分野で近代的社会の基盤を打ち立てた功績によってよく知られています。

世界史の教科書などを見ると、「明証的で確実な知識を基礎に近代的な科学を創始した」とか、「われ思うゆえにわれ在り」といった標語が書かれています。

この紹介は、(やや盛り気味の言い方ではあれ)まったく間違っていません。でも、これだけではデカルトの思想の内容は伝わらないし、頭に残りにくいのではないでしょうか。

そこでこの記事では、最終的にはデカルトが17世紀の科学革命に果たした貢献がなんなのか、みなさんに理解してもらえるよう解説します。

さらによく知るための文献案内

1.デカルトはなぜ疑ったのか〜「方法的懐疑」

デカルトが、私たちのもつ知識についての全面的で徹底的な疑いを敢行し、その果てに得た確実な知識をもとに科学の基礎を打ち立てたということは、よく知られています。

しかし、この思索の内実をちゃんと理解するためには、デカルトがなぜ、何のために知識を疑ったのかを把握しなくてはなりません。

伝統的学問への不満

自伝的哲学書『方法序説』のデカルトは、当時の学問の現状を嘆いています。

17世紀当時というのは、宗教改革(ルターによるプロテスタントの誕生)や技術革新(活版印刷や望遠鏡)、学問的パラダイムシフト(コペルニクスやガリレイの地動説)、反知性的な人文主義ルネサンス(エラスムスやモンテーニュ)、極め付けは各国間の小競り合い(30年戦争など)といった具合に、まさに中世の安定した世界が崩壊していく動乱の時代でした。

時の権力であったキリスト教ローマ・カトリックの教義と伝統(神による世界の創造・奇跡・最後の審判・天動説…)をめぐって、至る所で論争が絶えることなく、学問の安定した基盤が失われつつありました。

デカルトは、自然科学の分野ではコペルニクスやガリレオのように先進的な考えをもっていました。特に彼の根底にあったのは、数学的な真理の確実性に対する信頼でした。

1+1=2とか、(ユークリッド幾何学の)三角形の内角和は180°であるとか、そういった真理は、たしかに誰にとっても疑うことができませんし、客観的に正しいと言い切れるものです。

もし伝統的な諸々の学問が数学的な確実性をもっているならば、誰もがその正しさを認めるのだから、こんな悲惨で不毛な論争はそもそも生じなかったでしょう。

デカルトがまず注目したのは、吹き荒れる論争の最中、問題となっている学問がしっかりした基礎をもっていないということでした。

懐疑論批判

しかしここからデカルトは、ただ伝統的学問を批判するだけでは飽きたらず、それに対して反論をふっかけている人々にも批判の矛先を向けていきます。

そうした反論の代表は、伝統的な学問が提示してきた真理は、どれも十分に確実で信頼できるものではないとする、「懐疑論」と呼ばれる議論です。

デカルトは、人口に膾炙した懐疑論が、ただ秩序破壊的であるばかりか、不毛でばかばかしいものだと考えていました。

デカルトにとっては、科学の真理は安定した確実なものだし、そうあるべきだと思われたからです。

そのためデカルトは、伝統的学問に対する不信感を抱く一方で、伝統的学問を批判する懐疑論を淘汰することも同時に自らの目的とすることになったのです。

方法的懐疑

そこでデカルトが採用したやり方は、「方法的懐疑methodical doubt」と名付けられたものでした。

これは、いったん懐疑論者に便乗して伝統的学問を突き崩した後で今度は懐疑論も打破して新たに自分の学問体系を一から作ってしまおうという計画です。

上手くいけばいかにも理想的な筋書きですが、具体的に見ていくことにしましょう。

「われ思う、ゆえにわれ在り」とは

方法的懐疑による伝統的学問の瓦解

まず第一歩は、基礎の脆く頼りない伝統的な学問を御破産としてしまうことです。

このためにデカルトは、懐疑論者の議論に便乗するだけでなく、新たにもっと強力な懐疑論を練り上げることになります。

結果的にデカルトは、石や蝋燭や自分の身体など、感覚を通じて知られるものの存在を疑い(感覚の懐疑)この世界の現実性を疑い(夢の懐疑)果てには数学の真理さえも疑ってしまうのです(数学の懐疑)

数学的真理は、ふつうは確実で客観的なものだと先ほど言いました。ですが、もし、私の思考が悪霊や悪意ある神によって狂わされていたとしたら?私は、2+3=5が真だと思っているけれども、これが単なる思い込みだったら?大方こんなふうにして、デカルトは数学的真理も極端な仕方では疑うことができると考えることになります(悪霊仮説)。

「われ思う、ゆえにわれ在り」

ここまでやれば、伝統的な学問はその基盤を完全に失い、ほぼ壊滅状態に追い込まれます。

さて、ここからが問題です。自らヒートアップさせた懐疑を、どうやって鎮めればよいでしょう

デカルトがここで生み出した解決策が、あの有名な言葉に代表される考え方です。

懐疑を進めながらデカルトは、ありとあらゆる真理を疑いました。しかし、疑いというのは私のこころの働きの一つです。ということは、こころがなければ疑うこともできません。つまり、どんなに頑張って疑ってみても、疑うことはこころの存在を前提してしまうのです。

ここで、デカルトは「われ思う、ゆえにわれ在り」のテーゼを提出します。

「われ」とは「私のこころ」のことで、「思う」とは、「疑う」ことも含めたこころの働き一般のことです。そして、「われ在り」とは、こころの持ち主としての私が存在しているということです。

こうして、「こころを働かせているとき、こころの持ち主は存在しなくてはならない」という主張として、あの有名な文言を理解することができました。

「明証性の規則」と科学の方法

明証性の規則の樹立

でも、こころの持ち主としての私の存在が確証されたからといって、何なのでしょう。

結局、学問知識についての私たちの信頼は、懐疑によって失われたままです。私の存在を確証することが、学問知識を立て直すことにとって果たす役割とはなんでしょうか。

簡単に言えば、以上の議論で重要なことは、どんなタイプの認識ならば信頼できるのかということがわかった、ということです。

「私が存在する」ということは信頼できることでした。そして私は、このことを「確実に真だ」と明らかに認識します。この明らかさのことをデカルトは「明証性evidence」と呼びます。そして、この明証性を伴った認識は、すべて信頼できるとデカルトは続けます。

つまり、私が信頼できる事柄が明証性という性質をもっているから、明証性をもっている事柄はすべて信頼できるというわけです。(なんとあやしい推論でしょう!)

これをデカルトは、明証性の規則と呼び、これを武器に次々と学問の基礎を取り戻していきます

科学の信頼性の保証

数学の知識は、明証性を持っているから信頼できる。感覚を通じて知られる物体も、私の感覚が平常時には信頼できる(と明証的に知られる)以上、信頼できる。

このようにして、数学と、それをベースにした自然科学の構想が描かれていくことになるのです。

最終的にはデカルトは、物理学だけでなく、生理学や心理学(当時の言葉では「情念論」)、果ては道徳学(倫理学)までを自分の学問の射程に含めていました。

こうした科学の体系をデカルトは「樹」に喩えています。根っこには、懐疑論を打破して私の存在について考察する形而上学。幹には、その形而上学をベースとして成り立つ数学的自然学=物理学。枝は、医学・機械学(工学)・道徳学。

現代の科学からすれば学問分野があまりに少ない(情報学や生物学、法学や政治学がない!)ですが、それでもやはり、近代科学の始まりと呼ぶにはふさわしい見通しでした。

「われ思う…」の意義

こうした観点から見れば、「われ思う、ゆえにわれ在り」というのは、それ単独で重要なわけではないことがわかります。

デカルトにとっては、このことから真理を探究するための方法を見出すことのほうが重要でした。たしかにデカルトにとって「私の存在」の確証は探究の基盤をなすものですが、彼の学問システムの全体は、明証的な認識にしたがうという知性主義的な傾向の方に認められるべきです。

この知性主義的な傾向は、以後、スピノザやライプニッツを巻きこんで、(「イギリス経験論」に対する)「大陸合理論(合理主義)」と呼ばれることになるのです。

まとめ

  • 脱スコラ学:デカルトは、古い伝統的学問を取り壊すために疑いを利用した。
  • アンチ懐疑論:それだけでなく、月並みな懐疑論をも打破して、新たな学問体系を打ち立てた。
  • 考える私の存在:「われ思うゆえにわれ在り」とは、「私が存在する」ことを疑おうとしても、疑いというこころの働きが、どうしてもこころの所有者たる私の存在を前提してしまうという意味。
  • 明証性の規則:ポイントは、「私が存在する」ことを確証したことから、「明証的に認識されるものは全て信頼できる」という指針を引き出したこと。
  • 学問の構築:明証性の規則に従い、数学的知識をベースに自然科学を構築する。こうして、近代科学は進展した。

以上の解説には、「いやいやそうはいかないだろう」という疑念が浮かぶかもしれません。特に明証性の規則はかなり眉唾です。

ですが、やはりデカルトが近代科学に及ぼした影響は非常に大きく、その影響の根っこには、明証性の規則に従う彼の簡潔で明瞭な科学観があること、これは揺るがないでしょう。

さらによく知るための文献案内

  • デカルト(2019)『方法序説』野田又夫訳、中公文庫。

さまざまな翻訳が存在するが、おそらくこれが最良。

  • デカルト(2006)『省察』山田弘明訳、ちくま学芸文庫。

文庫版ならばこれがおすすめ。だが、そもそも哲学の本はいきなり読んでもわからないものなので、入門書から読み始めるといい。

  • 小林道夫(2006)『デカルト入門』ちくま新書。

読みやすく明瞭な語り口。デカルトの自然科学論を重視した入門書としてはおすすめ。

  • 小泉義之(2014)『デカルト哲学』講談社学術文庫。

読み物としても面白い、楽しい入門書。

著者情報

究進塾 編集局

究進塾 編集局
東京・池袋にある究進塾の編集局です。受験指導のプロが大学受験に役立つ情報をお届けしています。 大学受験対策コースはこちらからご覧いただけます。

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