サルトルの実存主義とはどんな思想か|高校生のための哲学・倫理入門
この記事では、世界史や倫理の教科書でしばしば見かける哲学・倫理学の用語や概念を、少し詳しく、そして分かりやすく解説します。
教科書を読んだけどよくわからない・もっと知りたい!と思った人には役立つでしょう。
今回は、サルトルに代表される現代思想、「実存主義existentialism」について解説していきます。
1.実存主義とは?
実存主義とは何でしょうか。まずは教科書的な定義から初めてみましょう。
(1)広義の実存主義:1920年代から1950年代までに隆興。マルティン・ハイデガー『存在と時間』、カール・ヤスパース、ガブリエル・マルセル、ジャン=ポール・サルトル『存在と無』など。
(2)狭義の実存主義:1940年代から1950年代までの、サルトルとその同調者たち。
(3)思想:人間としての自己を中心とする世界観を推し進めた。「存在は本質に先立つ」などの標語に要約される。
さて、以上の説明は、実存主義についてのよく知られたクリシェのひとつです。
しかし、「人間を中心とする世界観」とか、「存在は本質に先立つ」とか、正直よくわからないところが多いです。
それもそのはず。実存主義に限らず、哲学的な思想を理解するためには、伝統との繋がりや、関係する諸概念との距離感などをまずは知っておく必要があるからです。
そういうわけでこの記事では、最終的には上の説明が理解されることを目指して、解説をしていきます。
2.実存主義と全体主義
まず、時代の流れから思想を見てみましょう。実存思想が1930年代〜1950年代を席巻したことはすでに述べました。
この年代は、言わずもがな、第二次世界大戦へ向かって摩擦と緊張が高まる時期から、戦争が終わり、その犠牲の大きさに人々が反省を加える時期にあたります。
サルトルがパリで『存在と無』を出版したのは1943年、まさにフランスがドイツに占領されていた時期です。当時サルトルは、カミュやエリュアールとともに、ドイツに対抗するレジスタンス運動に同調していました。
大戦期から戦後しばらく、哲学者や文学者など人文系の学者は、ナチスの犯した多くのあやまちが、ひとりのカリスマ的な指導者を奉ずる一党独裁的で権威的な全体主義に由来するものだと考え、これについての批判や反省を繰り返してきました。
もちろんサルトルの思想には他にもいくつものソース(たとえばデカルトのコギト、フッサールの現象学やハイデガーの現存在分析)がありますが、ごく簡単にまとめてしまうならば、彼の実存主義は全体主義に対抗して個人主義を推し進める潮流の中におくことができるでしょう。(実際にはそれほど単純ではありませんが、一応の図式的説明として受け止めてください。)
実存主義の個人主義的傾向について、もう少し砕いて説明します。
全体主義では、全体の利益が何よりも優先され、個人の利益や権利は往々にして軽視されます。
ここでいう全体とは、時の政権が決めた一定の集団、たとえば「国家」や「民族」や「同じ思想を共有する人(同志)」などです。(ヒトラーの率いるドイツ、ムッソリーニの率いるイタリア、スターリンの率いるソヴィエトなど。)
こうした全体主義へのアンチテーゼの一種として実存主義を理解することができます。実存主義は、個人が生きているということがそれ自体で重要なことだと考えるわけです。つまり、個々人が存在するのは、全体の利益のためでもなければ、それどころか何か特定の目的のためでもなく、ただそれ自体で意味のあることなのだという主張です。
まだいくらか抽象的すぎて分かりにくいところもありますが、とりあえずは、全体主義とは違ってむしろ個人主義的な思想として、実存主義のイメージを掴んでください。
3.「即自」と「対自」の二元論
議論の内実をはっきりさせるために、サルトルが用いた最も重要な概念的な道具である、「即自存在」と「対自存在」について説明します。
まずは簡単に定義しておきましょう。
- 即自存在being-in-itself:他のものに依存せず、それ自体で成立する存在。普通のモノ。
- 対自存在being-for-itself:自分自身に対面する存在。意識。
私たちは通常、「自分がケーキを食べていること」、「自分が石を投げていること」などなど、自分が何をしているかを認識できます。
あるいはもっと抽象的に、自分が考えていることを考えることができます。こういう二重の認識や思考のことを、私たちは「意識consciousness」と呼んでいます。
人間は、自分がやっていることを認識できる、意識的なイキモノなわけですが、その意識的なあり方を、サルトルは(精確にはヘーゲルの用語を手直しして)、「対自」と呼びます。
つまり、対自存在とは人間のような意識的な存在のことなのです。
そして、ここで重要なのは、例えば「ケーキを食べている私A」を「認識する私B」のことを考えてみると、この私Aと私Bが、完全に同じものではないということです。
というか、認識するためには、認識するもの(主体subject)と認識されるもの(対象object)が同じものであることはできません。
ケーキが自分の目にくっついていては、ケーキを見ることはできないですよね。何かを見るということに一定の距離が必要であるのと同じく、認識するためには主体と対象が別個のものである必要があるのです。
そして、意識が生じる場合には、認識主体と認識対象は同じ「私」です。この点で意識は、普通の感覚知覚(ケーキを見る例)とは異なる、きわめて特殊なステータスを持ちます。同じものであるはずの「私」が、認識する側とされる側に分裂してしまう。
見る私が、見られる私から飛び出すことをサルトルは「超越」と呼びます。そして、自分自身を超越し、いわば外側から自分自身を眺めることを、自らに対面すること、すなわち対自と呼びます。
こうした超越-意識の構造をもつものが、対自存在と言われるものだということです。
このへんの話は慣れるまでは難しいところがあるので、いまはとりあえず、自分の心を意識してみて、「超越」を経験してみてください。なんとなくサルトルの言わんとしていることがわかると思います。
反対に、「ケーキ」や「石」そのもののことを考えてみてください。こういうモノは、確かに存在してはいますが、まさかケーキは自分がケーキであることを知らないでしょう。
ケーキには意識がありません。意識がないということは、ケーキはケーキそれ自体に対面して存在してはいないということです。
こういう、たんに自分自身のうちにあるだけのもの、自らを超越することがないもののことを、サルトルは「即自存在」と名付けているのです。(「即」という言葉は難しいですが、英語を見れば意味は明瞭で、「自分自身のなかにある存在being in itself」ということです。)
4.「存在は本質に先立つ」
さて、即自存在としてのモノと、対自存在としての意識的人間というサルトルの基本図式を踏まえると、あのよくわからない標語についても少し見通しがつきます。
「存在は本質に先立つ」というのが問題の主張でした。
まずは「存在existence」というものを、自分が今あるままのあり方のことだと考えてください。昨日夜更かしをして勉強したので目の下にクマができている。勉強した甲斐あって、二次方程式の解の公式を完璧に覚えている。そんなあらゆる要素ないし情報の集合体としての「私」を、ここでは存在と呼びましょう。
ちなみに、この「存在」と「実存」は、同じ ‘existence’ という語の訳語ですので、概ね同じ意味です。
哲学的議論の文脈では、「実在」「存在」「実存」などと訳されるのですが、語尾に「主義ism」とつけるときには大概「実存主義」と訳するのが通例です。(「実在主義(実在論realism)」は全く別の理論の名前として既存だったし、「存在主義」は特に意識的存在が問題であることを強調できないためか、あるいは「存在論ontologie」というこれまた別の議論と被るためか…。)
では「本質」とはなんでしょうか。哲学の議論で言う「本質essence」とは、伝統的には「形相forme」や「何性whatness」や「本性nature」などとほぼ同義語で、あるものがそれであるために不可欠な要素や性質を指します。
簡単に言えば、ものの定義に含まれるもので、「それは何だ?」と聞かれたときに答えになるようなものです。(例えば、「地球」についての「太陽系の惑星」、「人間」についての「二本足の動物」など。)
ここで少し伝統的な哲学について触れておきましょう。古代以来の正統的な哲学では、「(個物の)本質は存在に先立つ」と考えられてきました。
プラトンのイデア論が下敷きにされていたり、キリスト教の影響で神が世界を創造したとされていたことも関係しますが、あらかじめ「動物」が措定され→その後に「哺乳類」が措定され→その後に「人間」が措定されるという順序でものを考えていたのです。
もちろんこれは、必ずしも時間的な順序の先後(どれが先にこの世界に存在したか)とは別に、むしろ論理的な順序の優劣(どちらがより基礎的か)に関わります。(「動物」は「人間」がいなくても成り立つが、「人間」は「動物」がなければ成り立たない。)
さて、こういう伝統的な考え方の最大の問題は、私たち一人一人の個人についても、あらかじめ本質が定まっていると思われてしまうことです。
つまり、ミケランジェロはあらかじめその本質において天才画家であったし、ユダはあらかじめ罪人であった、という風に。
こうなると、人生における選択や決定は、私たちのあり方に対して何も影響しないということになりかねません。最も悪い意味での「運命論」もしくは「決定論」に陥りかねないのです。
サルトルが抵抗したのは、まさにこの点でした。サルトルは、私たちの生のあり方は、将来に対する選択や決定によって決められると主張したかったのです。
「存在は本質に先立つ」とは、簡単に言えば、個々人の意志による選択が、当人の本質を形作っていくという意味です。
このことによって人間は、倫理的・社会的・政治的な責任を引き受けつつ生きる意志的な主体としての地位を得ることになります。(詳述できませんが、サルトルの有名な「アンガジュマン」の思想もここに由来します。)
こうした人間観は、サルトルが人間を意識的な主体として、つまり対自存在として措定したことにももちろん関係しています。
即自的な存在には意識がありませんから、自分がどうあるかを決定することはできません。反対に、対自的な存在は、自分がいま何をしているかを知ることのできる超越的な視点をもっています。
この超越的な視点が確保されていることによって、対自存在たる人間は、自分の生き方についての選択や決定を自由に下せるようになっているのです。
以上のような実存主義の基本的な発想は、やはり全体主義と比較すれば個人主義的なものと言えるでしょう。
ヒトラーがふれこんだ「ゲルマン民族はかくあるべき」「ユダヤ人はかく扱われるべき」という偽造された本質論、そしてそれに盲従し、決定権を譲渡したアイヒマンなど多数のドイツ国民が全体主義の権化と言えるなら、実存主義は、個人の決定権を最大限拡大する点で個人主義の思想です。
まとめ
(1)「存在は本質に先立つ」とは、人間の意志による決定がその本質を作っていくという主張。
(2)この主張は、人間の意志よりも先に、本質が決められているとする伝統的な考え方に対するアンチテーゼ。
(3)自由に決定する主体としての人間は、対自存在の概念から説明されうる。
(4)実存主義とは、以上のような構造をもった、ある意味で個人主義的な思想。
さらによく知るための読書案内
サルトル(2007)『存在と無』松浪信三郎訳、ちくま学芸文庫。
(最重要文献ですが、いきなり読むのは少しきついので、以下の参考書とセットで読むのがおすすめ。)
サルトル『嘔吐 新訳』鈴木道彦訳、人文書院、2010。
(実存主義のダークな側面が垣間見え、小説家としてのサルトルのすごさがわかる。抽象的な哲学の議論が人間のリアルな生の側面として記述されるため、入門に向いている。)
松浪信三郎『サルトル』、勁草書房、1994。
(日本語で書かれた入門書としてはかなり優秀なもの。)